ありのみ便り 令和6年3月15日号
更新日:2024年3月19日
学校問題
鎌ケ谷市の初富交差点の南東角(富岡1丁目)に「校舎新築之碑」があるのをご存じですか。大きく立派な石碑なので気になり、鎌ケ谷市史で調べてみました。
碑は、今からちょうど90年前の昭和9年(1934年)、この場所に鎌ケ谷尋常高等小学校(現在の鎌ケ谷小学校)が移設されることになったのを記念して建てられたものと分かりました。碑が建てられたのは、住民間で学校建設場所を巡り12年間も紛糾が続いた後、ようやく解決したからです。
この騒動は「学校問題」と呼ばれ、当時の鎌ケ谷村を二分する論争に発展し、千葉県が調整に入ってもまとまらず村長が辞任して3年間も村長不在となり、村議会に住民が乱入して刑事事件となるなど異常事態が続きました。大問題となった背景には、村の「南北問題」があったようです。
この時代の小学校制度は義務教育が尋常小学校6年で、その後は2年制の高等小学校に通うこともできました。当時の村には高等小学校がなく、鎌ケ谷に鎌ケ谷尋常小学校(現在の東部小学校)、中沢に中野尋常小学校(現在の南部小学校)、初富に明(あきら)尋常小学校(現在の北部小学校)の3校しかありませんでした。そこで、高等科を併設した尋常高等小学校開校の気運が高まり、大正11年(1922年)、道野辺に建設されました。現在の鎌ケ谷駅から少し南に寄った場所です。
しかし、この場所は村の北部地区(佐津間、粟野、軽井沢、初富)の住民にとっては納得できるものではありませんでした。もともと北部地区では、同地区に尋常小学校が1校しかないのに南部地区(鎌ケ谷、中沢、道野辺)に2校あることに不満がくすぶっていました。そんな中、尋常高等小学校も南部地区にでき「学校数格差」が一層広がったことで、村を南北で二分する「学校問題」が表面化しました。
学校数の差は、当時の村の政治状況を反映していました。当時は村議会議員、執行部(村長、助役、収入役)ともに南部地区の人が多かったことが影響したようです。その後、北部地区の議員数が増え南部主導の村政に異を唱えます。
12年間の紛糾後、尋常高等小学校は村出身の貴族院議員、三橋彌氏が寄付してくれた村中央の土地に移転し「学校問題」はようやく解決しました。
今の鎌ケ谷からは、過去に市域が二分される大問題があったことなど想像できません。歴史には意外な発見があります。「学校問題」は、明日16日から鎌ケ谷市郷土資料館で始まる企画展「鎌ケ谷の小学校150年史」(広報かまがや6ページ参照)でも取り上げています。お出かけください。
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