第9回 昭和の景観(5)晩秋の中沢地区の景観
更新日:2022年9月14日
前回ご紹介しました佐津間地区と同様に、市の南西部に位置する中沢地区も、半世紀前までは、農村的な景観を色濃く残していました。
写真1 晩秋の中沢地区の景観 昭和46年(1971年)11月30日
この写真は、広報より移管されたフィルムの1カットです。はじめは、どの地区を撮影したものか判明しませんでしたが、当時の住宅地図との比較により、中沢字向の水田から字大堀込の集落を写したものと推定できました。写真中央部には、谷地川(大柏川)の支流である根郷川が確認でき、その両岸に整然とした区画の水田が見られます。聞き取り調査によると、この当時の稲作では、稲の刈り取りは9月後半から11月上旬にかけての時期に行われていたといいますので、稲刈りが終わって間もないころといえます。そのため、刈り取った直後の稲干しに使用されたオダ(稲架)がそのまま残されています。
台地のすぐ下に連なる背後の家並みは今も残されています。このような景観は、現在の日本ハムファイターズタウン鎌ケ谷がある字根郷から続いています。背後に台地(ヤマ)があり、前面に水田が広がるという集落は、中世(鎌倉時代から室町時代)に形成された古いムラであることが多いですが、歴史資料によると、中沢は遅くとも14世紀の南北朝時代に地名が確認できますので、その事例ということができます。
なお、残念ながら、すでに写真の景観は失われています。昭和50年代以降、市内では次第に水田の耕作が行われなくなり、当該地も荒れ地もしくは空き地となっています。
さて、写真の場所から根郷川のすぐ上流と思われる場所を撮影した明治時代の写真が残されていますので、次に掲載してみます。
写真2 字猿根付近の水田 明治32年(1899年)
この写真は、旧牧士家で中沢の名望家であった三橋家に伝わっていた約120年前の写真のうちの1枚です。現存していませんが、三橋家の旧屋敷地は大堀込に隣接する字猿根にありましたので、その付近の水田を撮影したものと推定しました。写真1の水田と比較すると、不整形の区画のように見えます。写真1までに約70年が経過していますが、この間に何が行われたのでしょうか?実は、大正3年(1914年)から8年にかけて、鎌ケ谷村(当時)を含む八幡町ほか9か町村による耕地整理事業の一環として、中沢でも水田の耕地整理が行われました。この事業の成果により、写真1の景観が成立したということになります。
このように、年代の違う2枚の写真を比較することによって、この間の歴史的な変遷がわかることがあります。その意味で写真も貴重な歴史資料といえます。
(注釈) 牧士 江戸時代、幕府が設置した馬の牧場を管理するために地元の有力農民が務めた役柄
名望家 地域社会で名声や人望を兼ね備えた人物や家柄
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