草莽の志士・渋谷総司生まれる
更新日:2018年6月25日
幕末になると各地に草莽の諸隊(集まり)ができた。倒幕運動に参加した地方の豪農や豪商出身者は、「草むらの中から生まれた志士」という意味から草莽と呼ばれたんだ。
名の知れた草莽の諸隊「赤報隊」の幹部だったのが、佐津間出身の渋谷総司だったんだ。
総司ってどんな人だったの?
渋谷総司は、佐津間村の名主を代々務めた渋谷家の次男として、弘化3年(1846)に生まれた。その当時はすでに徳川幕府の支配がゆるみ、地域の治安や秩序が悪化していたんだ。
幕末の騒然とした世情の中で育った総司は、諸国を巡って尊皇攘夷派の志士と交わることになる。
いくつのとき、運動に参加したの?
慶応3年(1867)秋、薩摩藩江戸屋敷を拠点に浪士隊が結成されると、総司はこれに参加し江戸府中のかく乱に従事した。21歳のときだったんだよ。
翌4年、鳥羽・伏見の戦いの後、倒幕軍の先鋒として総裁の相楽総三を中心とする「赤報隊」が結成されると、総司は幹部として参加。
赤報隊は年貢半減の布告を出すなど庶民の心をつかみ、官軍の進軍にあたって大きな貢献をしたんだけど、同4年3月3日、偽官軍として処刑されてしまったんだ。
かわいそうにね。
慶応4年4月、江戸城は無血開城されたけど、これに不満をもつ旧幕臣は各地で抵抗を繰り広げたんだ。
市川・船橋付近では、撤兵隊と呼ばれる旧幕軍と新政府軍が衝突し、鎌ケ谷大新田付近の戦闘で新政府軍側の佐土原藩(現・宮崎県)の藩士2名が戦死。後年、この2名の墓が千葉県によって建てられ、大仏墓地に残っている。
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