木下街道で魚を江戸に運んでいた
更新日:2018年6月25日
現在の主要地方道市川印西線は江戸時代には「木下道」よばれ、行徳や八幡(市川市)と木下(印西市)を結ぶ重要な脇往還だった。この街道は木下から鹿島や銚子へと続いているため「鹿島道」・「銚子道」、また銚子や鹿島難でとれた鮮魚を江戸・日本橋まで運ぶルートだったので、「鮮魚道」などとも呼ばれていたんだよ。
へえ~、たいへんだったんだね。
鎌ケ谷村は街道の要衝にあたり、利根川の水運が盛んになるにつれ、街道の往来も増加ししだいに宿場として整備されていったんだ。宿と呼ばれるのは木下街道沿いの大仏十字路から延命寺までの範囲で、最盛期には、問屋が1軒、旅籠屋が7軒あった。
その当時の建物などは残っていないの?
現在、宿場の面影はほとんどないけど、宿の北側の外れにある鎌ケ谷大仏だけが、いまも変わらずその姿を見せてるよ。この大仏は、安永5年(1776)に鎌ケ谷村の商人・大黒屋文右衛門が、先祖供養のためにつくらせたもので、開眼供養のときの盛大なようすは「つぼには白銀、お平に黄金、皿にゃ小判でとどめさす」という唄になったほどなんだよ。
ずいぶんにぎやかだったんだね。どんな人が通ったの?
鎌ケ谷宿には、たくさんの文人墨客がきてたんだ。貞享4年(1687)年には、松尾芭焦が「鹿島紀行」の旅の途中に通ったんだよ。
文政8年(1825)には、江戸時代の画家として著名な渡辺華山が利根川を旅したときに宿を通り、画集「四州真景図」に釜原の絵を描いている。天保9年(1838)には、香取地方で農村改良を指導した大原幽学が旅籠屋「丸屋」に宿泊したことを自著「性学日記」に書いているよ。
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