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第22回 史料整理の現場から(2)地道な調査がつなぐ歴史の断片

更新日:2022年12月21日

 前回ご紹介した、芳野金陵(よしのきんりょう)の書が発見された鎌ケ谷地区の旧家には、所蔵家代々の蔵書であった、近世~昭和期の書籍や雑誌などの刊行物が多数残されていました。その中には、かつて同家当主であり在野(ざいや)の漢文学研究者・漢詩人でもあった方の蔵書なども含まれています。
 その経歴を史料によってたどってみると、明治18年(1885年)から同26年にかけて漢学塾二松學舍(にしょうがくしゃ)(現二松學舍大学)に学び、同舎の創設者である三島中洲(みしまちゅうしゅう)(1831年から1919年まで)に就いて漢文学を研究し、塾生の監督や教師も務めています。その(かたわ)ら東京専門学校(現早稲田大学)行政科の課程を卒業し、明治28年には有朋義塾(ゆうほうぎじゅく)(明治27年、日本メソジスト教会(キリスト教の教派の1つ)によって甲府市内に設立された教育機関、同42年廃止)に招かれ漢文学教師となり、同義塾の文芸誌『峡中(きょうちゅう)文壇(ぶんだん)』(明治30年創刊)では「星孫」の号で主筆(しゅひつ)(編集長)を務めていたことがわかります。
 同家が所蔵する書画の掛軸の中には、前記の三島中洲の書も三(ぷく)確認されており、うち一幅は明治28年秋、星孫が有朋義塾の招きに応じ教師として赴任する際に贈られたものです。なお、中洲はその翌年に東宮(とうぐう)侍講(じこう)(皇族に書物の講義をする官職。ここでは、東宮(皇太子だった大正天皇)に講義した)となり、以降晩年まで大正天皇に近侍(きんじ)し、漢学の進講(しんこう)(特に漢詩の指導)にあたりました。
 その後、この当主は、明治35年に病気のため、鎌ケ谷村に帰郷して以降、もっぱら経史(けいし)(儒教の経典である経書や歴史書)・詩文を研究する日々を送り、漢詩人として広く名が知られる機会は少なかったかと思われます。しかし、昭和4年(1929年)3月に佐津間の宝泉院(ほうせんいん)で行われた澁谷総司(しぶやそうじ)贈従五位(ぞうじゅごい)報告祭・建碑除幕式の際には、慰霊(いれい)七言絶句(しちごんぜっく)三首を霊前に献上しています。贈られた漢詩の原本が澁谷家(佐津間)に伝存していました(現在は、市教育委員会所蔵)が、一方、作成者の側においても、清書され折りたたまれた原稿が残されており、昭和4年から90年の歳月を経て再び(ひら)かれることとなりました。
 このように、限られた史料の中では伝存の経緯がわからないことも多いなか、たとえ断片的な事象であっても、調査・整理の過程で点と線がつながっていくことで、地域の歴史の新たな一面が知られ、より深く歴史を学ぶことができるのではないかと思います。

注釈(本記事は、『鎌ケ谷市郷土資料館だより』53号に掲載した「史料整理の現場から」2の内容を一部改変したものです。)


澁谷総司の霊前に献上した七言絶句の原稿

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