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第29回 史料整理の現場から(9)明治30年代の鎌ケ谷郵便局の帳簿から

更新日:2024年2月2日

 明治4年(1871年)に施行された近代的な郵便制度の普及のため、政府は地域の有力者に土地や建物を提供してもらう代わりに、「郵便取扱役(ゆうびんとりあつかいやく)」に任命して業務を請け負わせるかたちで、全国各地に「郵便取扱所(ゆうびんとりあつかいじょ)」(後に「郵便局」と改称)を設置しました。千葉県では翌5年7月時点で、鎌ケ谷村を含む57か所に設置され、鎌ケ谷村では当時村役人を務めていた長浜善作が郵便取扱役に就任しました。
 その後、鎌ケ谷郵便局では、市域全域などの郵便物の集配業務に加えて、明治18年に貯金の取り扱いを始め、明治32年には為替(かわせ)の取り扱いも開始しました。また、この頃郵便局の場所も変更され、鎌ケ谷の大新田(おおしんでん)地区の徳田(とくだ)家が局務を担うようになります。徳田家文書には、明治期の郵便関係史料を含む貴重な歴史資料が数多く残されいます。
 今回ご紹介する「為替振出帳(かわせふりだしちょう)」は、明治35年5月から明治36年11月までの郵便為替(差出人が送金額・手数料と引き換えに郵便局で発行してもらう為替証書を受取人へ送ることで、受取人がその証書と引き換えに郵便局で現金を受け取ることができる送金方法)の取扱業務の中で作成された1冊の帳簿です。取扱月日、差出人・受取人の住所・氏名、払渡局所名、送金額などを記入し、取扱件数と金額を集計したもので、毎月数十件ほどの取り扱いがありました。
 帳簿に記された差出人(利用者)のほとんどは鎌ケ谷村内の人で、佐津間(さつま)の澁谷隼太郎(はやたろう)が最も多く、明治35年6月から明治36年11月までの間に11件見られます。これは当時、東京帝国大学農科大学農学実科(現東京農工大学農学部)の寄宿生だった長男の貴重(きじゅう)と、おそらく東京府内の高等女学校に通っていたと思われる二女のよしに宛てて送金したものです。


為替振出帳(明治36年(1903)6月29,30日部分)

 また、明治36年1月から2月にかけて、村内の初富御料地(はつとみごりょうち)の拝借人から御料局東京事務所宛ての送金が3件見られます。初富御料地は明治22年から昭和4年(1929年)まで、現在の新鎌ケ谷1丁目から4丁目(旧初富字林跡928番地など)に所在した皇室所有地で、一部が村民や周辺町村の有志に貸し下げられ、個人や共同で借用・開墾していました。為替の金額は、1か年に1反(約10アール)当り1円(現在の約2万円)の拝借料という当時の契約内容と一致しています。
 ほかにも、明治36年に中沢(なかざわ)三橋(みはし)農場からの送金が2件あります。うち1件は宮城県伊具(いぐ)丸森(まるもり)町(注釈1)の蚕種(さんしゅ)(注釈2)販売業社に宛てたもので、これは農場に設置された蚕桑(さんそう)部(養蚕・蚕種製造・製糸を扱う)の活動によるものと思われます。三橋農場は明治34年に地方名望家(ちほうめいぼうか)(注釈3)の三橋(みはし)(わたる)によって開設され、蚕桑(さんそう)部のほか農事試験部・種苗(しゅびょう)種畜禽(しゅちくきん)部(注釈4)・図書標本部・農事講習部がありましたが、活動の詳細についてはよくわかっていません。
 上記の事例はいずれも市域の歴史にかかわる事柄で、ごく限られた時期のわずかな記録にも、他の史料とのつながりの中で史実を裏付けるような発見があることに、喜びを感じます。

(注釈1)宮城県の最南端に所在する町
(注釈2)蚕の卵(産業用語)
(注釈3)地域社会で名声や人望を兼ね備えた人物・家柄
(注釈4)繁殖や品種改良のために種取される家畜や鳥
(注釈5)本記事は、『鎌ケ谷市郷土資料館だより』63号(令和5年6月1日発行)に掲載した「史料整理の現場から」12の内容を再編集したものです。

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