第5回 明治時代の旅
更新日:2021年12月13日
今回紹介する資料は、明治26年(1893年)に市域の中沢に在住していた3組の夫婦が主として千葉県内の名所や寺社を旅したときに書き記した「備忘録」です。平成30年度に郷土資料館に寄贈いただいた資料です。
備忘録
この備忘録には11月5日から11月17日の12日間にわたる旅の日程と、これにかかった費用が簡潔に記されています。明治時代、市域の人々はどのような旅をしたのでしょうか。
この旅の日程を地図に書き起こしたものが下図になります。
図「11月15日より11月17日までの旅程」
これを見ると、旅は主に千葉県を中心として、旅の前半は利根川沿いを中心に、旅の中ごろは太平洋沿いを、後半は内陸地および東京湾沿いを旅していたことがわかります。また、訪れている地で圧倒的に多いのは寺院と神社です。
例として11月7日の旅程を見てみましょう。この日は、前夜に宿泊していた佐原(現 香取市)から香取神宮(現 香取市)に参詣し、これより和船に乗り潮来(現 茨城県潮来市)を経由して鹿島神宮(現 茨城県鹿嶋市)へ向かっています。同社参詣後は、息栖(現 茨城県神栖市)にて夕飯を食べ、蒸気船で銚子(現 銚子)まで移動し、同所吉野屋で宿をとっています。
絵葉書「香取神宮大鳥居」(鎌ケ谷市郷土資料館蔵)
香取神宮は経津主大神を、鹿島神宮は武甕槌大神を祭神とする神社です。両社とも『日本書記』において、武神として活躍した神をまつる神社として古くから崇敬を集めてきました。江戸時代以降、これに息栖神社(現 茨城県神栖市)を加えて「東国三社」とされ、この三社をめぐる「三社詣」の旅は大いに流行しました。今回の旅では息栖神社に立ち寄った記載はありませんが、かつて息栖神社の一の鳥居脇に宿を構えた柏屋という旅籠で夕飯をとっており、息栖神社にも参詣した可能性は考えられます。こうしてみると、この旅は江戸時代以降の寺社参詣を中心とした旅を踏襲していると言えます。
江戸時代の旅との違いといえば、蒸気船をはじめとする近代的交通手段の登場があげられます。先にあげた息栖より銚子への蒸気船の利用のほか、この旅では笹川(現 東庄町)より忍び坂(現 海上町)までを人力車で、また八日市場(現 匝瑳市)より東金(現 東金市)までを馬車で移動しています。一方でまだこの時点では県内に鉄道が敷設されていなかったため、この旅で鉄道利用はありませんでした。また、先にあげた例外を除けば、多くが利根川水運の利用と徒歩によるものであることから、移動手段としては近代化への過渡期の旅であったことがわかります。
さらに旅程を見ていくと灯台や県庁といった近代建築物も見学していたことがわかります。犬吠埼灯台(現 銚子市)は、明治7年(1874年)にイギリス人技師ブラントンの設計により作られたレンガ造りの灯台で、高さが32メートルもあります。また、千葉県庁は明治7年に設置されたもので、旧菊間藩邸に手を加えた擬洋風建築の建物で、周囲には樹木や花が植えられ、散歩が楽しめるようになっていました。明治20年代の市域の人たちが、寺社参詣の傍らでこのような近代化の象徴ともいえる建物を見学していることは大変興味深い事実です。レンガ造りや擬洋風建築の近代的建造物がこの頃すでに新たな観光名所として認識されていたことがわかります。
11月17日にこの全12日間にわたる旅は終了しました。やがて鉄道が発達し、移動に時間がかからなくなってくると、旅の日程は次第に短縮化されていきました。
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