第7回 100年前のパンデミック 「スペイン風邪」の史料(2)
更新日:2021年11月10日
100年前のパンデミック 「スペイン風邪」の史料(2)
郷土資料館では、保存年限に到達した市の公文書(行政文書)のうち、歴史的な価値を有すると考えられるものを歴史公文書として毎年引き継いでいます。その中には、明治 大正 昭和戦前期の文書もあります。それらの一つに、毎年村役場が作成していた「事務報告書」があります。毎年2月ころに前年分が作成され、村会(議会)に報告されていたものです。その内容は、事務件数、村会、吏員(役場職員)および委員の異動、条例および規則、戸数および人口、基本財産、兵事 衛生 教育の状況などが記されていて、当時の行政について知ることができる貴重な史料です。
大正七年鎌ケ谷村事務報告書
さて、大正7年(1918年)の「鎌ケ谷村事務報告書」の衛生の項には、前年の大正6年より死亡者(正確には「埋火葬認可証」の交付件数)が16人増加し、101人となったことが記され、その理由として「昨秋ヨリ悪性感冒流行シ、罹病者ノ死セシニヨルナリ」とあります。「悪性感冒」はまさに「スペイン風邪」のことを意味し、流行の始まりについて、前回紹介した「明尋常小学校沿革誌」の記載と符合していることがわかります。そして、翌8年の「鎌ケ谷村事務報告書」にも、依然として「悪性感冒」が流行したため、7年よりさらに15人増加し、死亡者が116人となったことが書かれています。
ところで、記されていた死亡者数は、現在の感覚ですとさほど多数とは思われません。しかし、当時と現在とでは市域の人口が大きく異なります。このことを加味して、「スペイン風邪」が100年前の鎌ケ谷村にどの程度のインパクトを与えたか考えてみましょう。
まず、この当時の村の人口は4,000人台で、少しずつ増加していました。次に「事務報告書」に死亡者数が記載されているのは、史料の残存と記載形式の変更により、大正3年(1914年)から大正10年(1921年)に限定されています。そこで、この8年間について、人口 死亡者数 死亡率の変遷を示すと下の表の通りとなります。なお、人口については、やはり歴史公文書として保存されている「鎌ケ谷村統計」の数値を主として利用しました。
年代 | 西暦 | 人口 | 死亡者数 | 死亡率 |
---|---|---|---|---|
大正3年 | 1914 | 4,069人 | 72人 | 1.8% |
大正4年 | 1915 | 4,204人 | 90人 | 2.1% |
大正5年 | 1916 | 4,289人 | 92人 | 2.2% |
大正6年 | 1917 | 4,388人 | 85人 | 1.9% |
大正7年 | 1918 | 4,418人 | 101人 | 2.3% |
大正8年 | 1919 | 4,323人 | 116人 | 2.7% |
大正9年 | 1920 | 4,120人 | 100人 | 2.4% |
大正10年 | 1921 | 4,684人 | 92人 | 2.0% |
【備考】赤字はスペイン風邪流行年
表を見てわかるのは、明らかに「スペイン風邪」が流行した3年間には、平年より多くの人が亡くなっていることです。平年の5年間の平均値が86.2人であるのに対し、流行の3年間の平均値が105.7人と、年平均で19.5人多いという計算になります。この19.5人が、ほぼ「スペイン風邪」によって死亡した人と推定されます。これを現在にあてはめてみましょう。まず、人口ですが、本年5月1日時点での鎌ケ谷市の人口は110,042人です。これを表中の8年間の平均値4,317人で割ると、約25.5倍になります。この100年間の人口増加にも驚かされますが、先ほど示した年間推定死亡者数19.5人に25.5をかけると、497.3人ということになります。したがって、現在でいうと、この3年間は、鎌ケ谷市域で毎年約500人ずつの方が一つの流行病で亡くなったという計算になります。したがって、「スペイン風邪」の流行は、鎌ケ谷村の人たちに大きな衝撃を与えたことは間違いありません。なお、死亡者数からは、市域における「スペイン風邪」のピークは大正8年ということになります。
このような歴史事象を私たちが知ることができるのは、貴重な歴史公文書が残されていたからにほかなりません。
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