第20回 東葛・印旛大師講の史料(3) 初富のオシャラク踊り
更新日:2021年12月17日
鎌ケ谷市の無形民俗文化財に指定されている軽井沢の「おしゃらく踊り」が、東葛・印旛大師講とゆかりがある芸能であることは、このシリーズの第18回で取り上げました。現在は軽井沢地区にのみ伝承されているオシャラク踊りが、かつては鎌ケ谷や中沢にも伝わっていたことは、平成5年(1993年)に刊行された『鎌ケ谷市史』資料編V(民俗)の調査の際に確認されていましたが、近年、初富と佐津間でも存在したことがわかりました。
『オシャラク歌集』に書き留められた「白石文句」の一節
初富に伝わっていた「歌集」の表紙
平成29年(2017年)、第18回ミニ展示「東葛・印旛大師講again」を開催した際、初富の東葛・印旛大師講の世話人を代々つとめていた家から、159点の歴史・民俗資料をご寄贈いただきました。その中の1点に、昭和9年(1934年)5月に記された「歌集」という表題が墨書された横半形式の小冊子がありました。はじめは、昭和初期の流行歌を書き記したものではないかと考えましたが、内容を詳細に見てみると、初富に伝わっていたオシャラク踊りの歌詞を記載したものであることがわかりました。旧蔵者の方に確認すると、初富でも昭和40年(1965年)ころまでオシャラク踊りが存在し、以前は旧蔵家に15人から20人くらいの初富の人たちが集まって練習していたといいます。
さて、この「歌集」には、多数のオシャラク踊りにともなう演目の歌詞が書き留められています。軽井沢に伝存していたのは「高砂」「木更津」「さくら(桜尽し)」「新川(新川地曳き)」「白枡の粉屋の娘」の5曲です。一方、87年前の初富に伝わっていたのは、次の通りです。
数え唄〔演目が記されていないため仮題〕 浦島太郎(一)、浦島太郎(二)、木更津、しもつま(下妻)(一)、しもつま(二)、砂村お茄子、新川(新川地曳き)、志良松(白枡の粉屋の娘)、高砂(一)、高砂(二)、御大師様(弘法大師))、白石文句、よしこ[ねんねん子守(桜尽し)、演目が記されていませんが、他地域に伝わったものとの比較により仮題]
このほか、「やれそうだよ 私は備前(びぜん)の 岡山そだちよ 米のなる木は」で始まる演目不詳の曲があり、合計15曲が確認できます。これらの中には、従来他地域でも採録が確認されていないものもあります。一例として「白石文句」の歌詞の冒頭を次に記してみます。
白石御城下 やれそうだよ はるか是より 北にと当りて 奥は奥洲 広しと云ども 六十四万石 御大将様の 表御門を さらりと開れば 竹に雀は 品良く泊るよ とめて泊りぬ 日の出の十七 親が止めても 兄弟が止めても 他人が止れば 尚さら止らぬ 其をとめるにや 止めよう御座るよ 当地の若者 一同に頼んで 其にて止めれは 左右に泊るよ(以下略)
なお、歌詞の文言からみて、「白石」とは仙台藩の支城(本城を守るためなどに配備された城)で、伊達家家臣の片倉氏の居城であった白石(現宮城県白石市)について歌ったものとわかります。
一方、同じ演目が伝わっているものについて、軽井沢や他の地域のものと比較してみると、微妙に異なっていることがわかります。民間に伝承されていた歌謡は、口頭で伝わっていましたので、節や歌詞が変化していくのが常でした。これらを比較してみることによって、どのように伝播(伝わり広がっていくようす)していったかを知ることができます。したがって、この史料のように歌詞を書き留めたものを発掘することは大変重要といえます。
鎌ケ谷中学校講堂で演じられた初富のオシャラク踊り
初富のオシャラク踊りについては、演じている様子を撮影した写真も見つかりました。
この写真は市広報から引き継いだ古い写真アルバムに貼られていた白黒の紙焼きです。実はこの様子を別アングルから撮影した写真は初富の個人宅に保存されていて、当時の初富の女性たちがオシャラク踊りを演じているシーンであることを確認していました。場所は当時の町立鎌ケ谷中学校講堂ですが、年代が確定していませんでした。
鎌中の講堂が昭和33年(1958年)1月に落成していることから、従来は昭和30年代前半としていました。同じページに貼られていた写真に「祝鎌ケ谷町」という横断幕が写されたものがあり、また、夜間の提灯(ちょうちん)行列の写真も見られることから、鎌ケ谷村が町制を施行した昭和33年8月1日のものと判明しました。
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