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第25回 史料整理の現場から(5)初富の古い地名について

更新日:2023年6月1日

 郷土資料館では、調査により新たに発見した、あるいは寄贈いただいた歴史資料の整理と並行して、すでに整理をしたものについても、現物の所在確認や史料目録(リスト)の見直しなどの作業を行っています。この作業の過程で、改めて史料を見返すことにより、新たな史実の発見につながることもあります。
 写真は、「(たか)(たん)(べつ)(とり)(えい)(こく)(もり)(その)(ほか)書上帳(かきあげちょう)」という表紙の1冊(写真(1))の中に、表題とは別の「質地証文之事(しっちしょうもんのこと)」という史料(写真(2))が記されていたものです。(2)についての情報は、これまで把握していませんでした。

 「高反別取永石盛其外書上帳」は、中沢地区の村役人家に伝わっていた史料です。明治3年(1870)1月、前年の中沢村の村高(むらだか)(米の収穫高に換算した土地の生産量)・反別(たんべつ)(面積)・取永(とりえい)(金納する租税)・石盛(こくもり)(等級)などを取り調べ、管轄する葛飾(かつしか)県に提出した書面の写です。
 これに続く「 質地証文之事」の部分には、明治2年12月、中沢村が 年貢(ねんぐ)(租税)の上納にさしつかえ、「 字木苅橋(あざきかりばし)」に所在する「新開発田地」2(ちょう)7(たん)3()9()(約27,000平方メートル)を抵当にして、東京 (とおり) 油町(あぶらちょう)湯浅七左衛門(ゆあさしちざえもん)から、金150両(注釈1)を借用した、という内容が記されています。湯浅は、明治政府による 小金牧(こがねまき)開墾事業を請け負った、開墾会社(かいこんがいしゃ)(初富会社)の社員(注釈2)の1人です。ただ、証文の原本ではないため、実際に取りかわされたものかどうかなど、詳細は不明です。

(注釈1)幕末の貨幣価値では1両は4千円から1万円位という説もありますが、いろいろな物価の違いもあるので、金額だけで現在の貨幣価値に置き換えるのは難しいようです(日本銀行金融研究所 貨幣博物館ホームページの情報を参考)。
(注釈2)ここでいう「社員」は事業への出資者という位置づけです。


写真(2)質地証文(明治2年(1869)12月)

 「木刈橋(きかりばし)」は、中沢地区に近接する初富字四ツ()(つじ)周辺の通称地名で、北初富7には木刈橋公民館があります。初富への入植開始間もない当時、旧牧地(小金中野牧(なかのまき))内を中沢村が開発していた田地があったことが分かります。
 慶応2年(1866)年、江戸幕府の「開墾奨励令(かいこんしょうれいれい)」によって、牧地も開墾の対象とされました。翌3年に、市域では中沢村のほか、佐津間(さつま)村・粟野(あわの)村が新開地(しんかいち)の年貢を支払っていることが、ほかの史料から確認されています。
 牧に隣接する野付(のつけ)村(牧や野馬(のま)の維持管理を負担した村)では、牧内の見回り場や、草銭場(くさせんば)野銭場(のせんば)(注釈3)といった採草地など、日常的に村人が立ち入ったり利用したりしていた土地を開発の対象としました。それらの場所に付けられていた古い地名のいくつかを、江戸時代の史料からも確認することができますが、今はもう残っていないものもあります。住居表示によって地図上から消えていってしまう小字(こあざ)名や、地区に残る通称など、小さな地名の一つひとつにも地域の歴史を知る手がかりがあり、その記録や記憶を大切にしていきたいと思います。

(注釈3)周辺農民がお金を払って草を刈って利用した場所。
(注釈4)本記事は、『鎌ケ谷市郷土資料館だより』59号に掲載した「史料整理の現場から」8の内容を再編集したものです。

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