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第23回 史料整理の現場から(3)1枚の牧絵図から

更新日:2023年2月5日

 前回からの引き続きで、平成30年度に行った鎌ケ谷地区の旧家の史料調査では、明治期の地租改正時に作成された帳面や絵図面に混じって、江戸時代に幕府が設置した牧場(まきば)が描かれた絵図が見つかりました。半紙2枚ほどの紙面に、小金(こがね)(まき)のうち中野(なかの)牧(黄色)・下野(しもの)牧(橙色)・印西(いんざい)牧(薄茶色)の範囲と、各牧に対して(やく)負担を義務づけられている「牧付村(まきつきむら)」及び役を負担していない「手明(てあき)(むら)」の位置が示されています。また、野馬捕(のまどり)(あるいは「のまどらえ」)時に使用される捕込(とっこめ)の位置、各牧の外周、野馬捕の勢子人足(せこにんそく)(野馬の追込みに動員される村人たち)と思われる人数が書き込まれています。絵図自体に年代等は記されていないのですが、いつごろ、何のために描かれたものなのでしょうか。
 同様の絵図は柏市内の旧家にも伝存しています。それらと比較すると凡例部分の文言がやや詳細である点が注目されます。村名を小判型に囲んだ牧周辺の村について、


(1)黄色「中野御牧(なかのおんまき)付ニ而(につきにて)四ヶ所(よんかしょ)御牧場(おんまきば)人足(にんそく)相勤候(あいつとめそうろう)村々(むらむら)
〔解釈〕中野牧付の村は4ヶ所の牧場人足を勤める

(2)橙色「下野御牧付(しものおんまきつき)村々ニ而(むらむらにて)其御牧場切(そのおんまきばきり)人足(にんそく)相勤候村々(あいつとめそうろうむらむら)」、
(3)薄茶色「印西御牧付(いんざいおんまきつき)其御牧場切(そのおんまきばきり)人足(にんそく)村々(むらむら)
〔解釈〕下野牧付(2)、印西牧付(3)の村はその牧場限りの人足を勤める

(4)白ぬき「御郡(おんこおり)役相勤不申(やくあいつめもうさず)手明村々(てあきむらむら)
〔解釈〕手明きの村は牧場人足を勤めていない


旨が記されています。
 こうした記載を手がかりに近隣の自治体史等によって関連史料を見てみると、中野牧付の村々から下野牧・印西牧への野馬捕人足の免除を求める願書(ねがいがき)が、寛政(かんせい)12年(1800)から文政(ぶんせい)11年(1828)の間に、金ヶ作(かねがさく)役所(陣屋(じんや))や勘定奉行所(かんじょうぶぎょうしょ)に宛てて何度も提出されていることがわかりました。(1)で4ヶ所の牧場人足というのは、中野牧及び同牧内の御囲(おかこい)、下野牧、印西牧への野馬捕人足のことで、願書と併せて下野・印西両牧最寄の手明村々の名前帳と()絵図(概要を示した絵図)が添えられていることから、当絵図もこれらの願書に付随して作成されたものの写ではないかと推測されます。また、宝暦(ほうれき)12年(1762)に新造された中野牧内の御囲(野馬の品種改良・繁殖等のための施設)が、「日暮(ひぐらし)御囲」(現在の鎌ケ谷市くぬぎ山・松戸市松飛台(まつひだい)付近。地名等を冠して複数の呼称がありました)として記載され、御囲内の捕込が天明(てんめい)2年(1782)に移転した五助木戸(ごすけきど)付近に書かれていると思われることからも、18世紀後半以降の作成と推定されます。
 中野牧付の村は牧の面積に比して村数・人数とも多かったことから、同じ金ヶ作役所支配であり木下(きおろし)(みち)を境に隣接する下野牧に加えて、管轄も異なり場所も離れている印西牧へも、野馬捕人足を出さなければならなかったようです。


見つかった牧絵図

 野馬捕は天候等にも左右されますが、 勢子(せこ)人足が動員される野馬の追込みと捕馬に、1つの牧で2~3日ほどかかります。牧付村には1日あたり、村高およそ100石につき6人ずつの人足が割り当てられました。その割当について、寛政(かんせい)11年(1799)に中野・下野両牧の野馬捕人足数を書き上げた史料では、中野牧付が88ヶ村1,094人、下野牧付が54ヶ村579人となっています。また、印西牧に関する同様の史料では、13ヶ村354人となっています。
 絵図には各牧の野馬捕人足数が、中野牧830~840人(別の絵図では950人とも)、下野牧1,480人、印西牧1,390人と記されています。下野牧・印西牧の人足数は、それぞれの牧付村への割当と、中野牧に動員される人数との合計に近い値となっており、下野牧付・印西牧付の村だけでは賄えない分の人足を、牧の面積に比して村数・人数とも多かった中野牧付の村が、追加で勤めていることがわかります。
 このような中野牧付の村々の負担について、「百年已来(いらい)相勤(あいつと)(そうろう)御役(おんやく)」とする史料の記述があります。願書が作成された頃から100年ほど前にあたる、享保(きょうほう)期(1716~1736)初期の野馬捕は、中野牧・下野牧を隔年で行っていたようで、下野牧の野馬捕の年には、中野牧付の村からも人足を出していたものと思われます。また、印西牧については、かつて中野牧で病馬が多く出た際、一部の野馬を中野牧から印西牧へ野替(のが)え(移し替え)したことから、その馬を中野牧付の村人足で捕るようになった、という伝承があったようです。これはすくなくとも、中野牧内の御囲(おかこい)が病馬の増加を契機として造られた、宝暦(ほうれき)12年(1752)より前の話であろうと思われます。
 このように、中野牧付の村々が、中野牧・下野牧・印西牧計3牧の野馬捕人足を、長年にわたり勤めていた一方で、いつ頃からか人足を勤めなくなっていた「手明き」の村が、牧場周辺には多くありました(写真の白抜きの村)。これは享保期(1716~1736)以前の牧場内(まきばない)新田(しんでん)開発等によって、村と牧場との位置関係に変化が生じたことが、一つの原因ではないかと思われますが、詳しい理由はわかっていません。
 寛政12年(1800)~文政11年(1828)の間には、中野牧付の村から金ヶ作役所(陣屋)や勘定奉行所等に宛てて、人足軽減を求める願書が何通も作成され、それに付随して牧絵図も描かれました。願書では、中野牧付の村は下野牧付・印西牧付の村と同様に中野牧内に限り人足を勤めるようにして、両牧への人足をこれら手明きの村々に差し替えるか、あるいは下野・印西牧付の村についても、中野牧付の村々と同様に各牧へ追加の人足を勤めさせてほしい旨を訴えています。
 享保期以降、経済改革の一環として進められた牧場内の新田開発は、開発を願い出た周辺の村が牧地の分譲を受け(「請所(うけしょ)」や「請地(うけち)」といい、市内では現在でも通称地名として残る所があります)、多くは野馬の立ち入りが可能な「野馬入(のまいり)」の林畑(はやしばた)(一般に少ない年貢負担で、(なら)(くぬぎ)などの雑木を植えて(まき)を切り出す土地)として利用されました。しかし、所々を仕切土手で囲むことから牧場が狭くなり、寒さ暑さ凌ぎに野馬が御林(おはやし)(幕府や諸藩の直轄林)へ入ることもできず、元来広々とした野で出生する野馬が「疲衰(ひすい)」して斃馬(へいば)(死亡した馬)が多くなってしまったようです。その後、野馬入りの場所を増やしていくなどして生育に適した環境が整えられていく一方、牧場を現場で維持・管理する村々の負担は、より大きくなっていったと考えられます。
 牧付村のうち、とくに牧場と直に接している野付村(のつきむら)(市域の粟野、鎌ケ谷、軽井沢新田、佐津間、中沢、道野辺の各村を含む)には、毎年の野馬捕と、それに伴う土手の普請(ふしん)(修覆※・築造工事)等のほかに、毎日2人ずつの野廻り(牧場内の見回り)、病馬の引取りと養育、斃馬の埋葬処理、野馬が村内に入り込んでしまう「内入(うちいり)」への対策、といった日々の役割がありました。また、牧場に関する御用以外にも、街道の宿場(しゅくば)周辺の村では道中の助郷(すけごう)(人馬の提供)、川沿いの村では川除(かわよけ)普請(河川の浚渫(しゅんせつ)堤防(ていぼう)工事)、鷹場(たかば)(江戸からほぼ5~10里の地域に設定された、鷹狩(たかがり)および鷹の飼養・訓練の場所)の村では将軍家や水戸(みと)家の鷹場御用、といった役を負担していました。
 一連の願書が出された背景の一つには、野付村では内入りを防ぐための野馬除土手(のまよけどて)の修覆が行き届かず、野馬に作物を荒らされ、また、牧場以外の御用負担がかさむことからも村が困窮し、農地が手余地(てあまりち)(耕作放棄による荒地)となってしまう、といった事情がありました。そこで土手修復の人足の助力として、また村の存続のため、野馬捕人足の免除を願い出た結果、一時的には人足軽減等の処置もなされたようですが、実際に村が退転(たいてん)(居住地から立ち退くこと)などしない限り、年来勤め続けてきた御用(ごよう)を免除するということは許されなかったようです。
 今日まで残された1枚の牧絵図は、市域ではほかに関係する史料が見あたらないものでした。この1つの史料から得られる情報は、ごく限られたものであるかもしれませんが、関係する近隣の史料を見てみることで、市域とのつながりや新たな発見を得られることもあります。史料の整理にあたっては、現存する様々な史料との関連性にも気づくことができるよう、心がけたいと思っています。

【注釈1】ここでは「修復」と表記するところを、文書の原文記載に従いそのまま『修覆』としました。
【注釈2】本記事は、『鎌ケ谷市郷土資料館だより』55号、56号、57号に掲載した「史料整理の現場から」4、5、6の内容を再編集してまとめたものです。

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