第9回 銃後の鎌ケ谷 米の供出と三福飯
更新日:2021年12月15日
日本は昭和12年(1937年)から日中戦争、同16年から太平洋戦争を開戦しました。このため、昭和20年に終戦を迎えるまで長い期間に渡って戦争が続きました。この二つの戦争は昭和13年に成立した「国家総動員法」のもと、国民に大きな犠牲と負担を強いることになりました。
戦場の後方にある『銃後』の村として、鎌ケ谷村にも戦場を支援するべく様々な負担が課せられました。その一つが米をはじめとする農作物の供出です。
日中戦争がはじまって2年後の昭和14年、日本は西日本や朝鮮(当時は日本植民地)の旱魃によって大凶作となりました。このため需要に対する供給が間に合わなくなりました。この食糧危機を受け、政府は同年11月に米の強制買い上げを決定し、翌15年の収穫米から供出を義務付けました。
米の供出は当初、その年の予想収穫高による事前割当が行われ、この割当に従った供出が行われていました。小さな農村であった鎌ケ谷村にも米の供出は厳しく求められました。鎌ケ谷市郷土資料館にはそのことを示す史料が残されています。
管理米供出ニ関スル通知(昭和16年/鎌ケ谷市郷土資料館所蔵)
昭和16年2月15日に鎌ケ谷村農会(現農協の前身)から粟野の米作農家に宛て通知された史料を見ると、農会は「予想収穫高によって割り当てた管理米(供出米)の提出が不足しているため、2月21日までに不足分を差し出すように」とこの農家に通知しています。また、同文中で「自家消費米を節約し、割当以上の米を供出するように」とさらなる供出を求めています。自家消費米は大人一人あたり1日4合と定められていましたが、これを削ってのまさに犠牲奉公的な供出が求められたのです。
米が国家の管理下に置かれ供出が義務付けられたことにより、農村であった鎌ケ谷村でも米の不足が見込まれ、節米をする必要が出てきました。
この時、節米の方法の一つとして鎌ケ谷村で提唱されたのが「三福飯」です。
「戦時生活刷新意見書」(昭和16年/鎌ケ谷市郷土資料館所蔵)
戦時の日常生活の指針がまとめられたこの「戦時生活刷新意見書」では、三福飯について次のように述べられています。
(前略)明治ノ中頃マデハ農民ノ常食ニ三福飯ト称シタルモノヲ喫シタル地方多カリキ、ソレハ米五割、麦三割粟二割位ノ混合飯デアル、今日此ノ三福飯ヲ復活シテ一般ニ食用スルコトヲ慫慂ス(後略)
(意訳)
明治の中頃までは農民は日常食として三福飯と称するものを食べていた地方が多かった。それは米5割・麦3割・粟2割くらいの混合飯である。今の時代にこの三福飯を復活して広く食べることを勧める。
現在、雑穀米というと白米と雑穀の割合が8対2で作られることが多いですが、この史料の通りに三福飯を作ると、白米に対して麦と粟を合わせた雑穀の割合が5対5となります。三福飯は5割が麦・粟からなっているため、香りも味も通常の白米を炊いたものとは異なるものとなります。
再現された三福飯
しかし、このように白米が入っていればよい方で、ほとんどが麦でできたごはんや、米の代用食とされた粟やモロコシの餅を食べていたという証言も残っています(『市史』資料集17)。また、小学校のお弁当では麦飯でないと「非国民」と言われたなど、食に対して同調圧力がかかっていたことを示す証言もあります(『教育からみた鎌ケ谷のあゆみ』)。
自分で育てた米をほとんど供出させられていた鎌ケ谷村の農業従事者は戦時中、「純農地ノ住民ハ犠牲奉公ノ誠意ヲ奮振」し、「食料ノ供給ヲ以テ第一ノ先務トナス」ことが求められ(「戦時生活刷新意見書」)、このような苦しい状態の中で米の生産・供出に追われていました。
鎌ケ谷市郷土資料館では今回紹介した史料を含め、『銃後の鎌ケ谷』に関する展示を現在、1階常設展示室内で行っています。次回も展示資料の中から銃後の鎌ケ谷についてご紹介します。
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